2006年7月16日 (日)

「8 1/2」

<見逃した名作シリーズ>二日目、
今日は「フェリーニの8 1/2」を観ました。

■8 1/2
1963年 イタリア 監督:フェデリコ・フェリーニ
出演:マルチェロ・マストロヤンニ、アヌーク・エーメ、クラウディア・カルディナーレ


映画制作に行き詰まる監督の日常、彼をめぐる女性たち、そして彼の頭の中の記憶。それら全ての混沌を描く、フェリーニの傑作です。
偉大なる創造のための破壊!という一点へ向けて、
あらゆる混沌が、実は緻密に論理的に収斂していくプロセス=映画を堪能することができます。

美しい映画でした。
「白黒だから」というべきか、「白黒なのに」というべきか。はたまた両方か。
「サクリファイス」「ノスタルジア」に続き、映画館で観るべき映画ベスト3です。ビデオで観てしまったことは忘れたいほどです。
死ぬまでに一度でいいから、この映画を映画館で観たいものです。

この「8 1/2」という不思議なタイトルは、フェリーニの8と1/2番目の映画
(共同監督作品やオムニバス映画を1/2と数えて)という意味なのだそうです。

冒頭、主人公の監督が、行き詰まった日常からの脱出を夢見るシーン。
ドアも開かないほど前後左右ぎっしりと詰まった車の列。
主人公の車には煙が充満し始め、主人公は必死に脱出を試みるが、
ドアも窓も開かない。周囲の人は誰も彼を助けない。

カメラは、彼を取り巻く車をゆっくりと写していく。
車から出られずにもがき苦しむ彼を、冷たい眼差しで凝視する男。
白い毛皮だけをまとった半裸の女性。
その女性の肩をゆっくりなでている男。
この女性の、毛皮からちらりと見える白い乳輪が、
信じられないほど美しいのです!

やがて彼はなんとか脱出に成功し、すべるように空を飛んでいきます。
…SF? ではありませんが、この冒頭の夢のシーンだけで、
この映画より前/後に作られたどの映画をも薙ぎ倒すほど、
この映画が比類なく美しい映画だということが分かります。

もう何をどう書いても主観まるだしで説得力皆無ですが、
要するに私の大変好きな感じの映画だったようです。

というか、映画が人生に似ているのではなくて、
人生が映画に似ているのだ!と断言してしまう映画でした。

今日の名言、出てしまいました。

ここ最近、三作連続でマストロヤンニを観ましたが(「甘い生活」「ひまわり」「8 1/2」)、彼は、若くても年取ってても太ってても痩せてても男前でもくたびれていても、とにかくいつでもどこでもどの角度から写しても、「あんた、全身役者やでー!」という俳優さんだとつくづく思い知りました。

どの映画に出ても「健さん」な高倉健とは似て非なる存在です。
「甘い生活」などでは、役名もそのまま「マルチェロ」でしたから、
もう役も自分もそのままなんじゃないの?と思えてしまうほど
境目がないように見えます。
しかし、「全然苦労していない」と思わせる俳優、
実はそれが本物の俳優ではないかと思うのです。

例えば、ロバート・デ・ニーロやダスティン・ホフマンなどは、
「すごい演技力」と賞賛されますが、ある意味「演技力」が素人目にも
見えてしまう、ということは、まだ越えるべき段階が一つあるように思えます。

マストロヤンニ以外にも、この映画には、「これでもか!」というほど
美しく個性的な女優さんが目白押しで、見所十分です。

主人公の妻役のアヌーク・エーメは、目力抜群の気品高い美人です。
頬骨が高くて骨格が綺麗。横顔が凛々しくて大変好きな女優さんです。
「甘い生活」にもリッチな有閑マダム役で出ていました。
「男と女」のヒロイン役で最も有名かもしれません。←これも観てない!

女優役として本名そのままで出演しているクラウディア・カルディナーレも、夢のように美しい女優さんです。本当に主人公の夢想の中に理想の女性像として夢のように登場するので、終盤彼女が現実に女優役として登場すると(ややこしいですね)、映画の中にも拘わらず、「やっと本物に会えた」と不思議な感覚に陥ります。

ですが、やっと現実に登場したにも拘わらず、監督と少し話した彼女は
すぐに「私の役はないのね」と悟ります。
彼女は、役がないだけでなく、映画そのものが作られないのだということを
この映画の中で宣言する、という重要な役割を演じています。

他にも、若くても年取ってても太ってても痩せてても下品でも上品でも、
とにかく異常に魅力的な女優さんが豪華目白押しです。

後で確かめると、140分と割に長い映画でしたが、
大変緻密で濃厚な作りになっているため、飽きずに観られるのでは…
と思うものの、好き嫌いがはっきり分かれる映画でしょうから、
自信を持ってお勧めはできません。どうもすみません。


=========================

<追記>

蠍座のリーフレットVol.120を再度よく読むと、
「残念ながら『8 1/2』は日本での劇場上映権が消滅していて、
現時点ではスクリーンで見ることは不可能である。」
とのことです。

また、
「『道』や『甘い生活』はまだ幸運な例で、外国映画の年代の古い
名作群はその殆どが日本国内での上映権が切れ、
映画館で見ることができなくなっているのが現実だ。
したがってどうしてもというときはDVDかビデオを購入するより手はない。」

(上記引用2箇所ともに蠍座館主の田中次郎氏の文章より)

…のだそうです。ものすごく残念無念。。。

大半はビデオで何とか我慢できても、中には圧倒的に劇場上映向きの映画があります。
最近はオーディオ機器も発達してきて、かなり立派なホームシアターが
実現できるようにもなりましたが、いくら立派になっても、やはりそれは
「お家でビデオ」の延長線上にすぎません。映画館とは根本的に異なります。
やはり映画を見る場所として、映画館にまさるものはありません。
どんなに小さな映画館でも、です。

なぜか。
不特定多数の他人と見るということ。
つまり、不特定多数の人と同じ時間と空間を共有すること。
トイレへ行きたくなっても途中で映画を止める訳には行かないこと。
家の「外」ですから、ある程度きちんとした格好をする必要があること。

「それって不便では?」と思えるかもしれませんが、
この「不便さ」および「本番感」が、映画と対峙する緊張感を生むのです。
緊張感のない映画鑑賞は、もはやテレビを見るのと一緒です。

そして、何と言っても最大の理由は、スクリーンです。
どんなに小さな映画館であっても、映画館のスクリーンはやはり特別です。

私にとって、映画はやはり特別なメディアです。
全くこれは人生の贅沢であると同時に、必要不可欠な精神的栄養でもあります。

たとえ隣の人のいびきがうるさくても、弁当の匂いが気になっても、
映画というものは、映画館という特別な場所で、
不特定多数の人と見るべきメディアだと思うのです。

…可能な場合においてのみ、ですが。
この、最も映画館にて上映されるべき映画の一つである
「8 1/2」が映画館で見られないという事実は、実に実に実に残念です。

「ワルキューレの騎行」の野外演奏シーン、
スクリーンで見たかったなー…

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年7月15日 (土)

「ひまわり」「戦艦ポチョムキン」

Dsc01011夏、三日目。
いきなりの暑さに少々伸び気味です。
夏バテ防止に、今夏3個目のスイカを購入。
今回は6.5kgと、かなりの重量級です。

さて、静内図書館では映画のビデオが無料で借りられます。
そこで、これを機に<見逃した名作シリーズ>と題して
死ぬまでに観なければいけない名作の集中鑑賞を予定しています。

ということで、今日は、
「ひまわり」と「戦艦ポチョムキン」の2本。

無節操がモットーですから、「名作」という以外に、
この2本の選択に関連性はありません。

***************************************************

■ひまわり
1969年 イタリア・アメリカ合作 監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
出演: マルチェロ・マストロヤンニ、ソフィア・ローレン


戦争によって引き裂かれた夫婦の哀しい行く末を描いた名作です。

そう強い政治的メッセージは感じられないように思いますが、
Wikipediaによれば、「反戦映画の傑作」なのだそうです。

それよりも、個人的には…
イタリア男 vs イタリア女 の豪華対決!
…という感じがしました。
なんと言っても、マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンですから。

先日見た「甘い生活」(1960)から9年を経て、
マストロヤンニ、微妙な中年太りとくたびれ感が相まって、絶妙にセクシーでした。おそらく世の男性俳優は、皆マストロヤンニのようにくたびれたい!と切望しているに違いありません。

そして、雌牛のような力強さと野性的な色気に加え、クールなエレガンスをも巧みに表現したミス・イタリア女、ソフィア・ローレン。夫と再会した直後に飛び乗った列車の中での号泣シーン、そして続く破壊シーン。この映画によって、私の中の「イタリア女」ステロタイプが形成されてしまいました。

確かに「情感たっぷりで哀切な映画」ですが、必要以上に甘すぎることなく
むしろ全体にクールな印象さえ受ける、終始画面に緊張感の保たれた名作だと思います。

やはり映画館で観たかったですね。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * *

こんなに哀しい映画なのに、一つだけ笑える不思議なシーンがありました。

庭で洗濯物を取り込んでいたジョバンナ(ソフィア・ローレン)の元に、
田舎から夫の義母が現れるシーン。
ジョバンナは、義母を居間に招き入れる。
居間は、ついさっき掃除をしたばかり、という様子。

と、ジョバンナが、置いてあった箒と塵取りを、
いきなり窓からポーンと外へ!

Dsc01005_1 

↑多少見にくいのですが、左に立っているのがジョバンナ。
窓から箒と塵取りを外へ放り投げているのがお分かりでしょうか。

「外へ置きに行く」のではなく、「無造作に放り投げる」のです。
何の説明も無く自然に挿入されるシーンなのですが、
掃除用具を窓から外へ放り投げるのは、イタリアでは普通なのでしょうか。
明日また使うときは、窓の外に散らばっている掃除用具を拾いに行くのでしょうか。

夫(息子)の不在の悲しみを共有する、という哀しいシーンに
いきなりのことだったので、面喰らってしまいました。



***************************************************

■戦艦ポチョムキン
1925年公開 ソ連 監督:セルゲイ・エイゼンシュタイン


ロシアじゃなくて、ソ連です。
ソ連って、何それン!と駄洒落好きな小学生に聞かれそうです。
ロシアの殺し屋は恐ろしや、という恐るべき駄洒落もあります。

まずは、作品の概要を、Wikipediaより抜粋・引用させて頂きます:

『「第1次ロシア革命20周年記念」として製作され、1925年に公開されたセルゲイ・エイゼンシュタイン監督によるソ連の無声映画。1905年に起こされた戦艦ポチョムキンの反乱をもとに製作された。…(中略)…

モンタージュ手法を確立した映画として名高いが、映画に含まれる共産主義的プロパガンダのために海外での公開は検閲を受け、多くの場面がカットされるなど難航した。スターリン時代にはソ連国内でも政治的理由でオリジナル・ネガがカットされるなどしたため、完全なオリジナルは散逸してしまった。その後、ソ連映画関係者の努力により1976年に世界中に散らばったポジ・プリントから完全版が再構成された。

この映画で最も印象的とされるのは「オデッサの階段」といわれる約6分間の場面で、「映画史上最も有名な6分間」と言われる。特に撃たれた母親の手を離れた乳母車が階段を落ちていくシーンは圧巻で、ブライアン・デ・パルマ監督の『アンタッチャブル』などの映画でも引用されている。史実によると、「オデッサの階段での虐殺事件」というものは存在しない。』

舞台は、日露戦争開戦後2年目の1905年、厭戦気分の蔓延する帝政ロシア。腐ったスープの集団拒否に端を発して、戦艦ポチョムキン号の水兵たちは反乱を起こす。反乱は、次第に民衆の間にも広まり、盛り上がりを見せるが、政府軍の一斉射撃による鎮圧が始まる…


本映画は、レーニンの芸術保護政策の元につくられた、
あからさまに<共産主義万歳!>のプロパガンダ映画であります。
映画の冒頭に、革命に関するレーニンの言葉がばーんと出てきたりします。

しかし、<民衆の連帯>という面については非常に丁寧に描かれていて、
この点に関しては素直に感動してしまう映画でした。私だけか…

個性豊かで一人一人顔の見える<民衆>と、
整然と民衆へ発砲する顔のない<政府軍>の対比は、
ステロタイプではありますが、いつの時代も感情移入には有効です。

映画の第一章、水兵たちが蜂起に至るまでの一連の流れは、
白黒で無声映画のせいか、何となくコミカルな印象さえ受けます。
そのせいもあってか、設定は「蟹工船」とよく似ているものの、
本作の方が全体に明るい印象でした。

中盤以降、「モンタージュ手法」と呼ばれる細かいカットの連続のせいか、
どこかドキュメンタリー・タッチで、最後までぐいぐい惹きこまれます。
最後には、「革命万歳!」と叫んでしまいそうになります。私だけか…

ソ連という国、および社会主義が、明るい可能性に満ちていた時代の映画なのだろうか、と感慨深い思いでした。

水兵が上官に食事の不満をぶちまける場面で、
「日本の捕虜になった奴の方が、まだましな物を食っているぜ」というセリフが印象的でした。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


さて、有名な「オデッサの階段」のシーンが、あの「アンタッチャブル」の乳母車のシーンの本家だったとは、恥ずかしながら今日の今日まで知りませんでした。おかげで、「おお、これはあの!!」と新鮮な感動がありました。

本作では、「今だ!」という瞬間にアンディ・ガルシアは現れません。赤ん坊を乗せた乳母車はとことん階段を落ちていきます。アンディ・ガルシアが格好良く現れるまで、乳母車は落ち続けていくのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)