少々前のことになるが、先週の日曜日の6月25日、北海道新聞に渡辺淳一のインタビューが掲載された。渡辺の新刊「愛の流刑地」の記念インタビューである。
以下、全文を引用すると同時に、私見を述べる。
下品な表現が頻出することを予めお詫びする。
(なお、文中太字※は、筆者注)
※この色の文章: インタビュアー 北海道新聞編集委員 佐藤孝雄氏
※この色の文章: 渡辺淳一氏
※この色の文章: 静内人
<同記事プロフィールより>
わたなべ・じゅんいち 1933年(昭和8年)、空知管内上砂川町生まれ。札幌医科大学卒。同大整形外科講師を務める傍ら小説を書き、69年に退職し上京、作家活動に専念する。70年「光と影」で直木賞、80年「遠き落日」などで芳川英治文学賞、2003年に菊池寛賞を受賞。題材は医学から歴史、伝記、恋愛小説まで幅広く、著書多数。直木賞、北海道新聞文学賞などの選考委員。東京都在住。
2006年6月25日(日) 北海道新聞朝刊掲載
行間往来 とーくたいむ
渡辺淳一さん 愛の流刑地
性愛の極致見詰め 人間の原点追求
精力的に大人の「男女小説(恋愛小説)に取り組み、文壇の第一線をゆく作家渡辺淳一さんの「愛の流刑地」(幻冬舎、上・下巻各1680円)が刊行された。昨年の新聞連載時から濃厚な性愛描写が反響を呼び、“愛ルケ”※なる言葉が広まった話題作。五十代半ばの中年作家と三十代半ばの主婦がひたむきに求め合う不倫の果て、それも「愛とエロス」の極致で男が女を殺(あや)め、裁かれる。著者にとっては四十年余の作家生活の一つの区切りとなったようだ。書くことで時代を攪拌(かくはん)したいと気概を抱き続ける作家精神などを聞いた。 (編集委員 佐藤孝雄)
※“愛ルケ”
ブログ「にっけいしんぶん新聞」 『今日の愛ルケ』
日経連載開始時から終了時までの全446話にわたり、リアルタイムで本作品に突っ込みを入れ続けた人気ブログ。読めば笑いでナチュラルキラー細胞が増加します。病気の方もそうでない方も必見。
http://ameblo.jp/nikkeiyokyom/theme33-10000044290.html
(以下インタビュー)
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――愛ルケは男女の絶対愛を描き不倫の代名詞になった「失楽園」(1997年刊)を思い出させます。作家生活を長く続けてこられたのは常に前作に書き残した部分があるから、などと述べたことがありますが。
「失楽園」は、あれはあれで一つの、「大人の純愛」の頂点を書き切ったと思ったんだけど、その後何を書こうと考えているときに今回のテーマが見えてきた。エクスタシーとか、情の世界の頂点での愛の行為を、法とか倫理などで裁けるのか。もう一つは性愛の頂点での男と女の性の根源的な違いを描きたかった。女のエクスタシーの深さと、それを生み出している男の、一歩下がってさめている部分。これは男と女の宿命的な生理の違いで…。性を見詰めることは、人間の原点を見詰めることで、これこそもっとも文学的なテーマだから。
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インタビュアーの佐藤氏、いきなり「カッコ」も付けずに「愛ルケ」と使ってしまっていますが、いいのでしょうか。確かにこの語の社会的認知度は高いとは言え、ニュアンス的にまずいのでは…と心配するも、渡辺ほどの「文壇の第一線をゆく作家」であれば器の大きさが違う、ということなのだろうか。
さて、いきなりテーマについて言及されているが、私には、今回の作品のテーマは、ずばり「抜く」ことにあったのではないかと思える。それがポルノの大目的だからである。それ以外に何が? この作品を読んで、人間の原点だとか、男と女の性の根源的な違いだとかについてインスパイアされたという人は、よほどの豊かな想像力・創造力の持ち主といえよう。
本作品の構造は、ある二つの要素の合体といえる。
まず一つ目は、何と言っても欠かせないセックスシーンである。それも、「失楽園」よりさらに前後の脈絡のない、それでいて性描写はより濃い目のセックスシーンの応酬である。「いいから冬香の裸出せ!」※という感じである。セックスシーンばかりで、話の展開に脈絡がなく、前後のつながりが薄い(というより描写を放棄/省略している)、展開が無謀である等の要素はポルノに不可欠なものである。
二つ目として、「行列のできる法律相談所」に代表される、昨今流行の法律ブームがある。
以上二つの要素を合わせてみた(が大失敗した)ということではないか。
図式として…
①「失楽園」のセックスシーン(脈絡薄め/性描写濃い目)
+
②「行列のできる法律相談所」
ll
オヤジ朝から大喜びポルノ
…ということではないだろうか。他に何かあるだろうか。
内容としては、要するに調教するのが好きな男と、調教されるのが好きな女の(二人だけど)モノローグ+行列のできる法律相談所少々(失敗)、ということである。他に何かあるだろうか。ご指摘頂ければ幸いである。
※「いいから冬香の裸出せ!」
291話あたりから後半は、ヒロインが死んだためにセックスシーンが自ずと少なくなり、特にその声が大きかったと思われる。
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――これまで数々の魅力的なヒロインをつくってきました。今回の冬香は控えめで、おっとりとして、でも情熱的で。
小説の主人公はもちろん好きな女性でないと書き切れない。冬香は、子供が三人いて、普通のサラリーマンの平凡な妻。これまでのぼくの小説のヒロインになったことのない人物だけど、そういう女性の中の、そうであるがゆえに秘めている圧倒的なエネルギーを引き出してみようと思って…。ぼくはいろいろな女性を書いているけど、どんな女性も芯は強い。その意味では強い女しか書いていないわけで。
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「数々の魅力的なヒロイン」って、いつも同じではないか。少なくとも、「失楽園」と本作品においては同じである。断言できる。名前と社会的立場が違うだけである。両ヒロイン役ともに川島なおみが演じて不足はない。肉は腐る寸前が一番うまい。
すなわち、主人公の男性に性的に開発され(た気になり)、<底なしのエロスの真髄(※後出)>に目覚めた(気になっている)女、である。子供が三人いようが孫が五人いようが、渡辺の好みの女=従順でカマトトで未開発(←ここ大事)であることに変わりはない。「強い女しか」ではなくて、「同じ女しか」書いていない、の間違いであろう。
好みの異性像が一つなのは人間として自然なことである。しかし、そのことと、作品のヒロイン像が毎回同じでいいということとは、別のことである。名前と社会的立場のみ変えればいい、という問題ではない。作家としての幅が問われるところである。
まあ、しかしそれも普通の小説において言えることである。ポルノにおいては、女性は単なるセックスの客体でよいのであろうから、毎回同じタイプの女性が出てくることは、ポルノにとってむしろ必然と言えるかもしれない。
重要なのは、この女性像が、ある程度、世間一般のオヤジ※幻想の集大成であるらしい、ということである。幻想は幻想にとどめておいてほしい。しかし、この幻想に呼応する女性が本当に出てきたら、しめたものである(←何が)。日本の少子化問題も解決するか。
※オヤジ
オヤジ的メンタリティを内面化した女性/若年男性層も含む。
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――単行本化に際し新聞連載時よりも情感の妖しさを濃密にするため、意欲的に加筆・修正したそうですが。
作家の作品として最後に残るのは、連載小説じゃなくて単行本だから。本にするときには徹底的にこだわります。
――今までの「男女小説」の中で、本作は一つの集大成になっていると感じました。
ありがとう。書き終わったときは心底疲れきってぐったりした。モチベーションが今回は特に高かったし、性愛の極致をだれよりもしっかりと書こうと思ったから。
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確かに「集大成」であった。
ホテルの延長料金をケチるとか、初回なのに避妊しないとか、愛撫が手薄だとか、風呂に入らないとか、白いスリップがオヤジ好みだとか、「なにをするの」「だめっ…」(その他本作参照のこと)等ということではない。
脈絡のないセックスシーン、前後の繋がりを無視した無謀な展開。貧困な語彙、薄い文章、ベタなセリフ。とにかく「小説」という形式における必然、必要、流れが著しく省略され、代わりにあるのはワンパターンな性描写の連続である。
例えば、今思いついた疑問を少しあげてみるだけでも…
・なぜ冬香は菊治のようなしょぼくれたけっちい男に夢中になれるのか
・いきなり誘ってなぜそうなるのか
・テクニックが素晴らしい、ことになっているが、全然そう思える描写に出会わないのはなぜか
・二人でHばかりしているが、冬香の夫は気がついていないのか
・三人の子持ちである冬香の子育てはどうなっているのか
・「ください」「いくわよう」など、なぜ冬香は変なセリフばかり口走るのか
……等々、脈絡の無さ、展開の不自然さ、表現の貧困さにおいて、本作は従来の渡辺作品の中でも群を抜く。
ポルノにおいては、性描写は、物語の流れを形作る過程で必然的に挿入されるものではなく、それ自体が目的となる。いかに多く抜かせるか。そこが勝負である。であるからして、上記のような疑問は、それ自体が野暮であり、そのような疑問に応えるべく書くことは、ポルノとして邪道である。ポルノたるもの、そのような些事はすっ飛ばして、脈絡なくセックスシーンばかりを書くべきなのである。本作は、まさに王道を行く。
したがって、前作よりさらにポルノとして純化されている、という意味において、集大成であったと思う。
ここんとこ、もっと突っ込みどころがありそうだが、濃すぎてギブアップである。齢70を越えて、「性愛の極致」を描くため、まだまだモチベーションの高い渡辺である。
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――作中、「世の中一般の単純で愚かな男たち、底なしのエロスの真髄を知らない男たち」という表現がある。本作はそういう世間の男たちに突きつける問題作では?
たしかにそういう意図もありました。現代社会は論理性を重んじ、知性とか理を尊ぶ風潮が強すぎる。しかし現実の人間は、情とか完成の世界で生きている。誰を好きだとか嫌いだとか。とくに男女の愛とか性愛ほど論理的でないものはないからね。小説は論を書いちゃだめだと思う。そうでなく、理では説明がつかない、でもリアリティーのあるものを書かなくてはね。
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佐藤氏の引用は、そっくりそのまま本作の主人公「菊治」 or/and 渡辺に当てはまる。これ以上的確な表現はあるまい。
この文章を読むと、どうやら<自分は『底なしのエロスの真髄』を知っている>という前提のようである。しかし、あの程度で真髄を語られては困る。これは、個人的経験に限らず、広く一般の現実や文学、映画等にはもっと豊かなエロスが存在する、という事実に基づく。この程度でエロスの真髄を語られては、ソクラテスもバタイユも浮かばれまい。さもなくば、「ぼくの中だけの、渡辺淳一的意味においてのエロスの真髄」と限定すべきである。
作者である渡辺本人が「これが真髄だ」と喧伝するのは作者ゆえに仕方がないとしても、世間一般が渡辺作品のような貧相な性愛観を「真髄」として持ち上げるのは、百害あって一利なしである。渡辺本人のためにもならない。
さて、そもそも、この作品の一体どこに、リアリティーがあったのだろうか。「リアリティー」の定義が私だけ違うのだろうか。ポルノ以外に、私はこれほどリアリティーに乏しい作品に出会ったことがない。その乏しさといったら、姉歯元一級建築士のカツラ以上である。その意味でもやはり本作は、ポルノである。
ポルノにリアリティーは要らない。ただひたすらセックスシーンがあればよい。これぞ正しいポルノの在り方である。
また、「現代社会は論理性を重んじ、知性とか理を尊ぶ風潮が強すぎる」と渡辺は言うが、渡辺のように性愛だけを重んじ、セックスや絶頂を尊ぶ傾向が強すぎるのもいかがなものか。少なくとも、三人の子を持つ既婚女性を絞殺したという設定に対して、あのような貧困な性描写でもって読者に共感を求めようとするのはいかがなものか。まあ、仮に性描写が十分であったとしても、共感を抱ける可能性は限りなくゼロに近いが。
さらに、「エクスタシーとか、情の世界の頂点での愛の行為を、法とか倫理などで裁けるのか」(前出)と聞かれれば、「裁けます」と答える他ない。
ちなみに、作品の中で<裁けていない>とすれば、それは作家本人の法的知識が乏しい or/and文章描写の力量が乏しいことに原因があるのであって、決してその事態そのものが「倫理や法では裁けない」という訳ではない。根本的に次元が違うので念のため。
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――以前、恋愛小説の社会性を論じて、時代を撃つというか、書くことで時代を攪拌したいというようなことを話していましたが、今回、その手応えは?
一応、ぼくなりに手応えはあった。小説を書く以上は、読者の一人一人が心の奥に秘めている、もう一人の自分というものにぶちあたってほしい。心の奥底のどこか一点に、もしかしてこの主人公のように狂おしく燃えるかもしれない、こういう恋をしたいという秘めた願望とか憧れをもっているかもしれない。その一点にぼくのうった矢が当たってくれるといい。
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「時代を攪拌」した手応えがあったとすれば、それは、ただ一点、<日本を代表する経済新聞の最終面に、1年3ヶ月にわたり堂々とポルノが掲載された>という事実においてのみ、である。決して渡辺が勘違いするような肯定的な意味においてではない。
また、朝の電車で日経の一面を安心して読むことが難しくなった(一面を読むと、自動的に最終面が前の人に見えてしまうため)、という点においても、「時代を攪拌」したと言えるかもしれない。※「今日の愛ルケ(#66)」参照※
http://ameblo.jp/nikkeiyokyom/theme28-10000044290.html
「#あの挿絵が最終面に載っている新聞、朝の電車でどうやって1面に目を通せばよいのでしょうか・・・。」
さらに、この(程度の)作品で、「(渡辺のうった矢が)当たった」と感じる人は、その程度の自分なんだな、ということをもう一度冷静に考えてみる必要がある。そして、男女ともに今の日本においてそういう人が多数存在するとすれば、その程度の文化なんだな、ということを私たちは冷静に考えてみる必要がある。
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――文章は優美というか典雅というか、きちっとしています。
とくにセックスシーンを書くときは、清潔感を失わないようにしないとポルノになっちゃうからね。そのためには毅然と立った文章でないとね。とにかく性愛描写が一番疲れる。性愛を書いたら、作家のほんとうの力がわかるからね。
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あ、ポルノではなかったのか。私はてっきり、渡辺はポルノを書くことを意図して、ポルノを純化したのかと思っていた。これをポルノと呼ばずして何をポルノと呼ぶのか、とも思っていた。これぞポルノ中のポルノ、正しいポルノの在り方、と思っていた。
しかし、ポルノではない、と。
してみると、ポルノとは何か。
少なくとも上記渡辺発言から読み取れるのは、ポルノか否かを分かつものは、「清潔感」の有無、とのことである。それを失うとポルノになってしまう、という。
果たして、「愛の流刑地」のセックスシーンに「清潔感」はあったか。どうも「あった」という前提で話は進んでいるようだが、どの辺にあったのか。また、どこら辺が「毅然と立っ」ていたのか。
「清潔」「毅然」という形容詞をめぐる解釈は、どうしても主観的な判断によるしかないので、あえてしない。というよりも不可能である。
ただ、「性愛を書いたら、作家のほんとうの力がわかる」という渡辺の言葉には、ある意味頷かざるを得ない。渡辺に的確に当てはまると思うからである。もちろん批判的な意味において、である。
ちなみに、別に性愛など書かなくても「作家のほんとうの力」は分かるものである。逆に、「性愛を書けば、文学的主題に触れている」と勘違いする作家が日本には多すぎる。はからずも、そうすることで自己の文学的主題の不在を曝け出すのみならず、自分の個人的な性的貧困をも曝け出すという結果に終わるのに、である。それならば、意識的に「抜く」ことを目的としたフランス書院の方が、よほど潔いというものである※。早く気付いて欲しい。
※よほど潔いというものである
決してポルノを擁護するわけではない。
また、この作品の中の一体どの部分をとって、「優美というか典雅というか、きちっとして」いる、というのか。佐藤氏は、何か違う小説を読んでいたのではないだろうか。それとも「ポルノにしては」という前置きが本当は文頭に隠れているのか。仮にも北海道新聞の編集委員たる人が、本気で言っているのだろうか。一体何と比べてそのように思うのだろうか。フランス書院文庫と比べてみても、本作は余裕で低質ではないか。
佐藤氏は、おそらくこのインタビューに臨む前に、「今日の愛ルケ」を読んでいると思われる。一体どんな気持ちでこのセリフを言ったのか。本気でないことを祈る。仕事って辛い。
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――ある評論家が、性愛を一生涯かけて書き切るのは渡辺淳一に託された使命なのだと書いていました。作家としての使命感は?
もちろんあります。使命感というか、ぼくしか書けないものを、ぼくの文体で書く。ぼくは女性が好きだし、男女関係ほど人間くさくて非論理でチャーミングなものはない。ここから目をそらさず、さらに追い詰めていきたいと願っている。
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こういう文脈で使われるほど、「使命」とは安い言葉ではない。また、渡辺が主題としているらしい性愛も、それ自体渡辺が書く/言うほど安いものではない。安いものには、安いという。それが、この作品が刊行された意義の一つであってほしい。
<追記>
本作品の映画化において、主人公二人の配役は以下の通り。
菊治: 豊川悦司
冬香: 寺島しのぶ
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